宮誠肯.Blog

フリーランス僧侶/精神保健福祉士の備忘録

惑星の物質代謝と仏教理論

第一章 輪廻
○星のかけら
 生き物はその一生を終えると、骸になり自然界で微生物により無機物まで分解される。それが土壌の一部になり、また新たな植物を構成する一部となる。その植物を草食動物が食べて、肉食動物がそれを食べ、食物連鎖の頂点にいる人間がそれをまた食べる。人間とて、この自然界の中では物質輪廻の輪の中の一部である。現在では埋葬の仕方は火葬が主流であるが、燃焼という酸化作用により二酸化炭素とその他ミネラルに還元される。二酸化炭素は大気大循環に乗り、また植物に取り入れられて光合成の化学反応により樹木の一部を構成することになるだろう。人口が増加し、将来的に100億人の人間がこの地球に占めようとも、地球全体の質量は変わることはない。なぜなら、このような物質循環により人間の身体を構成する物質は絶えず自然界から供給され、また、ひとつの生命が閉じれば物質輪廻の中に入っていくからだ。言い換えれば、私たち人類は星のかけらなのだ。

○ガイア理論
 このような事実から考えると人間中心主義(ヒューマニズム)が如何に偏った思想であるかが見えてくる。生態学的に観れば、人類もある一定期間物質代謝をなす一つの現象であり、万物の霊長類だから地球を自分たちの勝手気ままに搾取して良いという話にはならない。債権者が債務者に対して優位な権利を持つのと同様に、人類やその他の生物を生み出した地球は生物に対して優位な権限を持つのだ。その昔、ラブロック博士がガイア理論というものを提唱した。それは、地球自身が意識を持つ生命体であり、そこで育まれた生命圏は全体としての意思を持っており、地球がある種目の生物を不要であると判断すれば、その種は滅びるというものだ。原子力まで発明し、豊かな文明生活を営んでいる人間であるが、いつ母なる星からノーを突きつけられるか分かったものではない。

○太陽信仰と聖
 太陽が放射した熱を地球は受け取り、地球は水と熱の大気大循環をして地球もまた熱を放射している。この大運動は熱力学第二法則エントロピーの法則)として知られる。太陽がその活動をやめる時、この地球も熱的死に至り機能しなくなる。従って、太陽と地球は一蓮托生の関係にあり、太陽がその寿命を終えれば必然的に地球も活動を停止するのだ。そのような状態の地球に生存するのは一体どのような生命体であろうか?鉱物のみが存在する他の惑星のようになるだろう。古代人はこの事を直感的に知っていた。太陽神を奉る宗教は世界各地にその痕跡を残している。太陽こそが我等に恵をもたらし、生命の根源であることを知っていたのだ。「聖」とは元来「日知り」に由来する言葉だ。ゆえに、太陽の運行を暦で知り、一年の農耕作業を司る者を聖といったのだ。狩猟社会から農耕社会への移行には、暦の発明が決定的な役割を果たしている。三内丸山遺跡の六本柱はその目的が諸説紛々であったが、これは暦の役割を果たした物と考えるのが妥当だ。柱の影の長短を計算し、一年の春分夏至秋分冬至などを計算していたものと考えられる。縄文遺跡では、栗を自家栽培しており、すでにそこには農耕文明への萌芽が見られる。狩猟・採集社会では、その日その日の獲物を得るのが一日の一大事であったに違いない。しかし、農業が勃興すると、作物を貯蔵する技術も当然のことながら発達してくる。それが、「富」の源泉である。やがて、遠くの土地に住む人間が目新しい物品を携えてやってくる。そこでは、当然物品の物々交換が始まる。そこから、貨幣制度が生まれるまでには国家という共同体の誕生が待たれる。文明の発生とは、太陽の運行を熟知することから始まったことが頷けるのだ。

○魂の輪廻
 私は今日に至るまで、仕事のトラバーユばかりではなく、学問のトラバーユも行ってきた。大学では農学部の森林水文学というゼミで、大気と水の循環における森林の水・熱収支を研究していた。演習林実習では合宿所で寝泊まりするのだが、5、6人の学生と起居をともにする。ある朝、同室の学生たちが奇妙なことを私に言うのである。「君は、入眠状態で数カ国後を流暢に喋っている」というのだ。学生のうちの一人に語学に堪能な者が居て、ある一フレーズをメモに残していた。それについて調べてみると、どうやら今は死語とされているラテン語の一句で、意味は「男と女はどうしたら調和するのか?」というものだった。そのような事が学生時代に二度三度とあった。そこから私は人間の脳や意識といったものの在り方に興味を抱くようになった。後年、精神保健福祉士になったが、現代の精神医学では解明されない問題であり、むしろ、仏教の唯識論にその答がみつかった。唯識学説では、人間の意識を眼・耳・鼻・舌・身・意・末那・阿頼耶識の八識に分類し阿頼耶識には、そこに過去のすべての経験の潜在余が蓄積されている蔵のような存在で蔵識とも言われるという。従って、この理論に従えば、私の魂が幾度かの輪廻を繰り返し、その時々の人生で使っていた言語が無意識に潜在していると考えることも可能だ。物質も魂も全てが流転する。

○ロゴスと光
 そういえば、「万物は流転する」と喝破したのはかのイオニア地方出身の哲学者ヘラクレイトスではなかったか?「同じ河に二度入ることはできない」「太陽は日々に新しい」といった発言をした人だ。世界の実相を絶えず変化する流動として捉えた。万物の流動は相反するものの緊張的な均衡の上に、万物を支配するロゴス(理法)が働いている。流動する世界の根源は「永遠に生きる火」とされ、理法が宇宙的規模の火に秩序を与え司っている。いったいその「火」とは何なのだろうか?ロゴスとは、聖書に出てくる「初めに言葉ありき」の「言葉」が原語ではロゴスと言われる。聖書の原語では、言葉はロゴスと訳され、その意味は、この理法につながる。また、別の訳の聖書の創世記では、「はじめに光あれ」ではなかったか?私たちは、ここにも光り輝く太陽の火の面影を見出すのだ。文明の発祥から哲学や宗教の発生に至るまで、人類と太陽の関係は相当に根深い。

○太陽神ミトラと弥勒信仰
 実を言うと、キリスト教の祭日について調べていくと、太陽神ミトラが西洋文明に横たわっていることが分かる。12月25日はほぼ冬至にあたり、イエスの生誕日というよりも、この太陽神ミトラを祀っていた古代西洋人の密議宗教が見え隠れするのだ。この太陽神ミトラは西側に渡ってイエス=キリストへの信仰となり、東に渡って弥勒菩薩信仰につながってくるのだ。このことについて述べ始めると、もう一冊の本が必要になるので、ここでは詳しくは触れないでおこう。いずれにせよ、人類の宗教には太陽神または太陽信仰という巨大なモチーフが存在することを銘記しておきたい。

パウロの場合
 私は、37歳で仏門に入ったが、幼年時代カトリックの幼稚園に通学していた。そこでは、毎朝磔刑キリスト像を前に祈りを捧げ、最後に「アーメン」で締めくくることを日常としていた。従って、仏教以前にキリスト教の刷り込みがあるため、宗教体験と言えば、まず西側の聖人たちが頭に浮かんでくるのである。その一つに殉教者パウロの回心がある。彼はもともと熱心なパリサイ派ユダヤ教徒で、キリスト教徒を迫害していたが、ダマスコに行く途中、不思議な光に撃たれ復活したイエスの声を聴いて回心した、というものである。彼の回心が無ければ今日のキリスト教の興隆は無かったであろう。

釈尊の場合
 翻ってお釈迦様ことゴータマ・シッタルタの場合はどうであろうか。言わずと知れた仏教の開祖である。ヒマラヤの麓の小国カピラバットウの王子として生まれ、何不自由の無い環境で育てられるが、29歳の時に妻子を捨てて出家し修行生活に入った。そして35歳の時にガンジス河流域のブッタガヤーの菩提樹の下で一週間坐禅瞑想をし、ついに普遍的真理を悟って目覚めた人=仏陀となったのである。はじめ、釈尊は自分が悟った内容を人に伝えても分からないだろうし、理解し得る人間も居ないと断定したようだ。しかし、梵天が現れ人びとに自分が体得した法(ダルマ)を万人に説くようにと要請された話はあまりに有名である。

○宗教体験の根底にあるもの
 同じ宗教体験でも、その光景はあまりに違い過ぎる。しかし、共通点もある。両者とも心の奥底に人生への実存的な「疑い」があったのだ。その疑いを起点にして、一方は不思議な光に撃たれて、もう一方は激しい求道の果てに12月8日の明けの明星を見て、宇宙の法がその身にあらわになって恍惚感にしばらく浸っていたという。宗教体験に共通するのは、心の奥に幡踞する「疑団」なのだ。ちなみに禅の世界でもこの「疑団」の存在が重要視される。

○無記ということ
 意外に思われるかもしれないが、釈尊は一般の人が死後の世界について質問したとき、「私はそのような世界を見たことが無いので答えることが出来ない」と答えたという。そして弟子に向かっても「出家者が葬式に関わることは絶対にいけない!」と言い残しているのだ。釈尊の弟子集団(サンガ)では、托鉢で食を乞ういわゆる乞食を生活の旨とし、世間的な労働や生殖をすることを厳しく戒めていたのである。この話は初期仏典に詳しく述べられており、信憑性の高いものだ。現在の日本の仏教者には少々耳の痛い話かもしれない。

○本当の智慧とは
 ヴィヴェーカーナンダは『カルマ・ヨーガ』のなかで「智慧」についてこう語っている。・・・・・智慧は外部から来るものではない。すべて内部にあるものだ。ある人間が「知っている」とわれわれが言う場合、彼に知られたものは、厳密に心理学的な用語でいえば、彼が発見したものか、または彼がヴェールを剥いだものでなければならない。彼が学ぶものは実は彼が無限の智慧の鉱脈である自分の魂のカバーを取り去ることによって発見したものである。
 ヨーガとは印度で発達した修行体系で「結ぶ」という意味を持つ言葉だ。例えば、肉体と精神を結ぶ、男性と女性が結ばれる、などなど。現代社会では、人は何かを習得することを外部から教えられることと解釈する向きがある。ところが、伝統的な宗教では本来の魂とは宇宙の根源とつながっており、通常の意識状態は盲目である。したがって、目隠しを取られれば無限の智慧に触れることができると説いている。印度に限らず、ギリシャ哲学の中でもプラトン学派とりわけ、新プラトン主義に属するプロティノスなどは同じことを説いている。つまり、宇宙の生命という一者が存在し、いかなる一個体の生命もその宇宙の一なる生命から派生したものである。したがって、生きている生命体はすべて、その一生を終えれば一なる魂に帰っていく。よって、我々人間は本来無限の智慧に触れることができる、というものだ。これは、アカーシャ=宇宙において過去・現在・未来において起こるすべての生命体の情報が織り込まれている記憶倉庫のようなもの、が連想される。本来、宗教と哲学は根をひとつにするものであり、宇宙や人間の過去・現在・未来を探究し、そこから精神的な生きる糧を得るものであると私は解釈している。この情報過多の時代、何かを知らなければ取り残されたような気さえしてくる人も多いだろう。しかし、雑多な情報のなかで、本来重要な情報は自分の魂のなかに存在すると考えた方が安心できるのではないだろうか?

○色即是空・空即是色
 このフレーズは般若心経のなかに出てくる有名なものだ。色とはいろ、かたちがあるもの、現象するすべての事柄、物質的なあらゆるものの総体を指す。もしくは、あらゆるものを五蘊とみなしてもよい。この色に関して、私たちは実際に存在するものとして日常的に認識している。しかし、このフレーズはその概念を根底から否定し、物事が存在しているという事実は、それを成立させる主体的・客体的な条件が完全に備わっていることを建前として成り立っている「かりそめ」の概念に過ぎないことを喝破しているのだ。ものはそれ自体が実体として現象し存在するものではないことを「色即是空」といい、実体としてだけでなく、それらが様々な諸条件に支えられた現象であるから「空即是色」なのだ。また、物理学者のアインシュタインはある質量と質量を持った物体が光速の二乗でぶつかり合ったとき、エネルギーが生まれるという、あの有名な数式、

E=mc2を発見した。このような美しい数式にも「色即是空・空即是色」はエレガントな形で表現されている。

○心身一如
 この言葉は肉体と精神が一体不二であり、身は心の身であり心は身の心であることを指す。つまり、身体と精神が別の原理のもとに作用している訳ではないということだ。身体と精神の情動作用としての心を分け隔てる分別的な思考を否定するものである。東洋医学で言うところの心身一如、こころが病めば身体に病気として現れるという原理にも通じる考え方だ。デカルト心身二元論とは相反する考え方である。前項で書いた物質輪廻にもこの概念は通じるものがある。無機物から有機物に発展し、さらに組織化して神経組織を中枢に持ち始め、意識が生まれやがて知性までも生物は有するようになる。これは、物質それ自体に組織化への潜在的な力動があることを指している。エントロピーの法則ではエネルギーが高いところから低いところへ流れるのだが、この自己組織化の運動は、熱力学第二法則に抗う物質(たとえ無機物であろうと)が持つ神秘的な力なのだ。物質輪廻と魂輪廻は根をひとつにしている。

○カルマ(業)
 言わずと知れた仏教について回る言葉だ。しかし、一度このカルマの定義を調べてみた。玉城康四郎博士の解説を記しておこう。  
 カルマは、業と訳されており、仏教の基礎的な概念である。しかし、仏教だけではなく、すでに仏教以前から現れ、またインド思想一般に広く行われている。カルマの語義は行為の意味につながっている。前世の善悪の行為が今世にも影響を与えるという見解は、ブラーフマナ時代に芽生え、ウパニシャッドに明瞭に現れてくる。仏教でも、善因善果、悪因悪果という原則を認めている。たとえば、「慈悲心の深いものは長命となり、そうでないものは短命となり、怒り易いものはみにくくなり、そうでないものは端正となり、施しをする人は豊かとなり、しない人は貧しくなる」といい、これらはすべて業によって束縛されているという。しかし現実は必ずしもそうでない所から、業の果報の受け方が、現在受ける場合、つぎの世で受ける場合、受ける時点が定まっていない場合などに分類されている。また、身口意の三業といって、体の動作、口の言語、心の作用など、個人の全体的な業を挙げ、さらに、集団に共通の業を共業、個々人の業を不共業といっている。 (現代哲学事典 講談社新書より抜粋)
 要約するとカルマとは結果をもたらす力を持つとされる行為であり、所作だけではなく言葉は思いも含むようだ。ある行為は一定の結果を引き起こし、カルマを積んでいくと、自らの未来の結果を引き寄せるようだ。これはまさに、輪廻の回転運動に力を加えるモーメントのことだと考えられる。因みにモーメントとは、ある点を中心として運動を起こす能力の大きさを表す物理量のことだ。カルマとは私たちを宇宙に存在せしめる物理的な作用のことなのだ。因みに、修行の結果、解脱し輪廻の回転運動から脱したものを仏陀という。その先駆者がゴータマ・シッタルタであり、道元らの宗教者であることは言うまでもない。そのように述べると、「いや僕は充分人生楽しいし、生まれて良かったですよ」などという言葉が聞こえてきそうなものだが、それはあくまで人生の快・不快原則に立って快い事柄にのみ注目して、生きるって楽しいと言っているに過ぎない。釈尊は快楽はいつか終わり永遠に続くものではない、美味しい料理だって何十時間もぶっ通しで食べることは出来ないし、いくら好ましい異性とだって心ときめく瞬間はあってもそれが一生涯に渡って続くことは無い。つまり、快を求めることが苦の原因であると喝破したのが釈尊ではなかったか? 刹那主義的な現代人はこのことをもっと知るべきだ。

第二章 仏教教典の真実

○般若心経の真実
 摩訶般若波羅蜜多心経
 観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
 舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦
 復如是。舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是
 故空中。無色無受想行識。無眼耳鼻舌意。無色声香味触法。
 無限界乃至無意識界。無無明亦無無明尽。乃至無老死亦無老死尽。
 無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜
 多故。心夢罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅
 槃。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知
 般若波羅蜜多。是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能
 除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。即説呪曰。
 羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提娑婆訶。般若心経。
 岩波仏教辞典によると「般若波羅蜜」とは、智慧の完成であり、その内実を空の思想が支える。また、その実践をまったく新しい自由な視点から、現実の日常世界に他者と共に活躍する大乗の菩薩が果たすという。この菩薩は仏の悟りを目指し、かつ衆生の教化に努めようとの決意から出発し、これを菩提心といい、しかもあくまで動揺しないため偉大な鎧に身を固めて、以後挫けることなく、終わりのない実践に精進することを意味するという。
 以下に私が到達した般若心経の意味を述べていきたい。
観自在菩薩→悟りに達して、心の認識作用が頭のなかで相続しなくなった求道者。
五蘊→心に浮かぶ映像と言葉を現象させている言葉が相続し、その心を構成する働きのこと。
色→物質的現象のことで、心の中にも現象する、色や形のこと。
諸法→心の中に現象するすべての存在のことで、実際は苦しみのこと。
 つまり、般若心経の大きな意味は、悟りに達した求道者が空観を習得し、菩提に達した時に、心を構成する映像や言葉が相続しなくなり一切の苦しみから解放された、というものだ。ここでいう空観とは天台止観の基本となる観法の一つで、常識的思慮分別により真実とされるものは仮のものであるから、すべての存在は空であり、本質的には実体のない空であるとみなすことである。

○苦しみの原因
 すべての人が背負っている苦しみの原因を仏教的にみてみると十二因縁が関係しているようだ。十二因縁とは、惑、カルマ、苦が生じる仕組みを言い表したものだ。以下に具体的に述べてみよう。
一、無明 仏性を悟らない無知を原因とするあらゆる戸惑い
二、行  五蘊が生まれ
三、識  五蘊から認識が生まれ
四、名色 認識から心の中に映像と言葉が生まれ
五、六処 眼と耳と鼻と舌と身体と心で
六、触  外界の物事に触れて
七、受  それらの物事を好きか嫌いかと判断し
八、愛  自分にとって好ましい対象をむさぼり
九、取  心の中に生じる映像と言葉によりそれらを認識してしまい
十、有  そのことから認識を心で相続し
十一、生 認識から苦しみが生まれ
十二、老死 生老病死を縁とする苦しみがうまれる
 このように、般若心経はあらゆる人が生きていくうえで、苦しみの原因を見出し、そこから抜け出して楽に生きていこうとするための教えであることがわかる。


正法眼蔵「現成公案」の真実

 仏道をならうというは、自己をならうなり。
 自己をならうというは、自己をわするるなり。
 自己をわするるというは、万法に證せらるるなり。
 万法に證せらるるというは、自己の身心、
 および多己の身心をして、脱落せしむるなり。

 この意味は、仏道を求めるということは、自己を求めることだ。自己を求めるということは、自己を忘れることだ。自己を忘れるということは、苦しみに証明されることだ。苦しみに証明されるということは、自己の身心および多己の身心をして、脱落せしめることだ。
 禅学大辞典によると、正法眼蔵とは仏法の真髄。眼は一切のものをうつす、蔵は一切のものを包む意味で、眼蔵とはあらゆるものをうつし、あらゆるものを包む無上の正法の功徳をあらわしたものということだ。現成とは現前成就のことで、微塵も隠すことなく、ありのままに現れていることを指す。また、この著書は道元の主著で、仏法の奥義を説明してあり、時に応じた説法をまとめたもので、深淵な禅体験に基づく世界と、人生に関する深い洞察が展開されている。この書物は他の宗教とは異なり、末法思想を完全否定している。また、自力による坐禅の道、心身脱落の境地などが透徹した道元の言葉によって説かれている。道元という人物は鎌倉前期の禅僧で京都出身の人である。曹洞宗の開祖であり内大臣久我通親の子であった。比叡山で学び、のち宋の国に入り天童如浄の法を嗣いだ。帰国後、建仁寺に住み、京都に興聖寺を、さらに波多野義重の要請により越前に永平寺を開いた。勅諡号を仏性伝東国師・承陽大師といった。

第三章 個人的な体験

○禅道場での修行を終えた朝の出来事

 修行を終えた39歳の5月18日の朝、偶然、禅師様と武生の駅でお会いし、駅のホームで暫くお話させて頂き握手までしていただいた。禅師が名古屋に行かれ、東邦大学の教授と対談する朝のことだった。握手をした後、電車に乗り、禅師様ともうお別れかと思うと、とめどなく涙がこぼれた。そのうち、様々な感情が起こり思考の渦の中に入っていった。しかし、仙台駅のあたりで地震があり、新幹線が止まっていた時のことだ。頭の錯覚かもしれないが、脳が思考を突き抜け、何も考えられない状態になった。恐ろしいほどの思考の空白だった。その後、腹部にぽっかり穴があいたような空虚感におそわれこれ以上ない程の感情体験をした。寂滅感だ。その直後のことだ。自己が大宇宙のなかで呼吸しているだけの存在になってしまったのだ。混沌の中、唯、呼吸しているだけの存在になっていたのだ。まばゆいばかりの光あふれる風景がひろがりだした。非常に強い精神的な解放感である。自我から解放されたという感覚だ。唯、光を見、深いとても深い呼吸をしているだけだ。それからは、腹の底から笑いがこみ上げ、ただ笑うだけだった。嬉しかったのだ。禅師のおっしゃる通り、生きているか死んでいるかは、呼吸しているか呼吸していないかの違いしかないということが実体験されたのだ。この世に不浄なものは一切なく穢れは無いではないか。樹木も人間も石も猫も草も海も山も皆、仏なのだ。すべては宇宙のひとつの構成物質から成り立っており、すべてが一体なのだ。宇宙には時間も無く個我も無い。その状態が一週間ほど続いた。しかし、今は、元の木阿弥である。 (了)
             参考文献 『倫理用語集』(山川出版社
                  『仏教辞典第二版』(岩波書店
                  『世界史の構造』柄谷行人著(岩波書店
                  『現代哲学事典』(講談社現代新書
                  『新版禅学大辞典』(大修館書店)
                  『定義集』(筑摩書房